一匹の鯨に七浦賑わう

エンターテインメント殴り語り

漫画「僕の心のヤバイやつ」にずっと情緒を蹂躙されている

 いよいよもって死のカウントダウンが近づきつつある。これまで数え切れないほど死線を潜りく抜けてきたけど今度こそもうダメだ。死ぬ。今まさにフェイタリティを決められる寸前の段階まできている。

 つまり、漫画「僕の心のヤバイやつ」がついにひとつのクライマックスを迎えている話です。

 

 

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不器用な両片思いから不器用な両想いへ

「えっまだ付き合ってなかったの!?」「もうほとんど両想いじゃん」という方々もいるかもしれないが、違うのだ。"まだ"両片思いなのだ*1。くっつくかくっつかないの一番美味しい距離感で永遠のモラトリアムを謳歌するのはラブコメの定石であるが、ついに僕ヤバはそこから踏み出した。

 ついにバレンタインが来たのだ。人生で一度しか訪れない中学二年生のバレンタインが。

 女子中学生が意中の男子にチョコを渡すか渡さないかモジモジしているだけで剣豪の立ち合いのような緊迫した雰囲気になり、物見の見物に来た野次馬はただならぬ剣気にあてられて失禁気絶する……これはマジでそういうやつだ。初恋という状況。チョコという凶器。十年そこそこの人生経験ありったけを賭した一世一代のバレンタイン。

 チロルチョコ将棋、チョコまんという小細工を張り巡らせ*2、犬の散歩を理由に当日の夜にお忍び訪問し、ギャンブルと称して苦いコーヒーを飲ませ、勇気を振り絞って渡したチョコすら自分ではんぶんこして一緒に食べてしまわなければ思いを伝えられず「全部うまく出来なかった」と泣いてしまうヒロインを見たら「もう付き合っちゃえよ」とか「抱けーっ!!」とか言えないんですよ。中学生なんですよ。初恋なんですよ。彼女ら。

 こうやって読者である我々は一喜一憂しながら市川と山田の言動を振り返ることはできても、当の本人たちにはそんな余裕はないじゃないですか。「昨日あんなこと言ったのキモかったか……?」って夜も眠れず悶々としていても、次の日に嫌が上でも山田と顔を合わせなきゃいけない市川がいるわけですよ。毎日が戦場で毎日が一日も無駄にできない機会なんですよ彼らにとっちゃあ。それに比べて俺たちはどうだ?2週間に1回ごときの更新だけでいっぱしの先輩気取ってて情けなくないのか?ちゃんと家族と話をしているのか?人生と向き合って生きてるのか?

……すいません、取り乱しました。本筋に戻ろう。

 ともかく、「これは絶対いけるだろ!」と読者が思おうとも、市川は尻込みするし山田は自信が持てない。いける筈と思っても実際目の前にすると全然気持ちが追いついてこなくて「いける」「いけない」が頭の中で衝突してぐちゃぐちゃになってしまうやつ。それが恋なのだ。心の中のヤバイやつなのだ。

 

ささやかな心の揺れ動き、その破壊力について

 この漫画は陰キャ男子と陽キャ女子のラブコメという看板を掲げているけど、その看板の下には日々更新され続ける中学生の情緒が一面に広がっていて、針の穴を通すような繊細な感情に絡めとられたらもう二度と抜け出せない底なし沼なんですよね*3

 特に最近は市川←山田の矢印の大きさが本当にヤバくて、こいついっつもふにゃふにゃしてるし何か食べてるしモデル以外長続きしないし字汚いしで完璧には程遠い女なんですよ。じゃあ容姿だけの張りぼてなのかというと全然違くて、自分がみんなからすごく大事にされている、恵まれた境遇にあることを十分理解していて、だからこそ「本当は迷惑をかけていて大切な人にも嫌われるんじゃないか」と不安を感じているただの女の子なんですよ*4。ちゃんと周りのことも見ていて、市川の優しさの裏側まで気にしてしまう相手への思いやりゆえの、ちょっとした、でも看過できない心のささくれが気になってしまう繊細な心の持ち主。

 これが高校生ではなく中学生というのがポイントで、精神的な面だけではなく身体的にも子どもから大人になる過程だからこそ描ける物語が僕ヤバで、「大人になれば今のような関係は終わってしまうかもしれない」という市川の恐れに対して山田が「大人になったことによる関係の変化」をむしろ楽しみにしていることを言葉にして伝える。そういった気づきの連鎖の上に市川と山田の関係は成立している。より深く向き合い、前を向いて、お互いに手を取り合って進んでいく。

 彼らは今まさに目まぐるしく成長し続けている段階で、そこに端を発する不安や思いを共有するというのは、ただ好意を持つこと以上にお互いの人生をひけらかす共犯者のような唯一無二の関係を築くということ。それはもう付き合うよりも難しい関係だし、大人でもそんな境地にまで至れるペアはそうそういない。というか「付き合ってる/付き合ってない」なんて表現じゃもう市川と山田の関係は表しきれないので新しい言葉が必要じゃないですか。「死がふたりを分かつまで*5とかどうです?もう結婚じゃん*6

 

心のヤバイやつが迫ってくる

 もう自作の暗黒中二病小説を執筆する市川京太郎はおらず、齢一五歳にして人生を分かつ相手を見出したピュアピュアな少年しかいないのだ。「僕は山田と付き合いたい*7」って口に出して言ったらもうそれは言霊なんですよ。2人が交わした会話の一つ一つがお互いを強固に結びつけるまじないであり、呪いでもある*8

「変化を恐れるタイプだね」とかつて山田に言われたことも今は昔。市川にとって、現状の山田との距離感でも十分居心地が良いのは伝わってくる。だけどその先を望むなら? もしかしたら、自転車2人乗りで一緒に下校ができる関係ではなくなってしまうかもしれない。そんな可能性があっても関係の変化を望むかどうか、その動静のピークが間違いなくこのバレンタイン回。

 人生最大瞬間恋焦がれる気持ちを記録した二人の世界を邪魔しないように、私にできるのは息を止め言葉を捨て感情を押し殺すことだけだ。怪獣に蹴り飛ばされる車のように、圧倒的な中学生情緒を前にできることは何もない。既に眼前に死が迫ってきている。こんなにも大きくて恐ろしい、心のヤバイやつが*9

 

 

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(終わりです)

 

 

 

*1:両者が完全に間合いを見計らっている段階に来ているというのに、ギリギリのラインでゴールインしないので読者は糖蜜責め(口の中にゲロ甘エッセンスを流し込まれる新手の拷問)を受けているに等しい。

*2:スピンオフ展開が本編に合流する流れが嫌いな人間は地球上に存在しない。

*3:読者は市川に合わせて自然と目線も年齢も下がっていくため感性まで中学生時代まで戻ってしまうんだね。

*4:ちょっとここの掘り下げがマジですごくて僕ヤバは市川と山田のダブルヒロイン漫画になった。いや、市川はもともと読者のヒロインですが……。

*5:この漫画が市川の「僕が今最も殺したい女だ」という物騒な心情描写から始まった物語であることを考えるとやっぱ「共犯」とか「死」みたいなワードを使いたくなるんですよね……。

*6:「もう(酸いも甘いも嚙み分けてきた)結婚(済の夫婦みたいなもん)じゃん」の意味。

*7:俺はここでのたうち回り、一度死んだ。

*8:自身の在り方を不可逆的に変化させるという点において恋とは呪いである。

*9:と言いつつこの後も既にツイヤバの方でいくつも予言が来ているので本当に恐ろしい。クリスマス回とか。海回とか。